三月も残すところあと数日となった、とある日の午後。星影法律事務所は、いつものように慌ただしく年度末を迎えていた。 もちろんナンバーワンであるところの神乃木も、いつにも増して多くの仕事を手際良く片付けている。 そんな中、神乃木は不意に顔を上げて、暖かい日差しの差し込んでいる窓の外を眺めた。 「センパイ、どうしたんですか? 疲れたなら、コーヒー淹れてきましょうか?」 千尋がそんな神乃木の様子に気づき、声をかける。 自分がどんなに忙しく立ち働いていようと、千尋は神乃木の些細なサインを見逃すことはなかった。 「ああ……大丈夫だ、疲れたわけじゃねぇ。コイツを見ていたら、もうそんな季節になるってのに気づいて、ちょいと感慨深くなっただけさ」 そう言って、神乃木は手元の資料を指差した。 スクラップブックに切り抜かれた週刊誌の記事には、『謎の失踪……一流商社フレッシュマンを襲った悲劇?』と大きく見出しが書かれている。 「……今、一番新しい依頼の資料ですか。これが、どうかしたんですか?」 「コイツ自体は、どうもしねえさ。トップ屋が想像力に任せてデッチ上げた、単なる上っ面のシナリオだ」 「…………?」 「ただ、被害者の肩書きが……な」 神乃木は千尋に記事を渡して、見出しを指でなぞった。 「『フレッシュマン』、ですか」 「ああ。何もなけりゃ、何日か後に晴れて一流企業の新入社員になるはずだった……きっと、胸の中はやる気と希望でいっぱいだったろうさ。ちょうど一年前のアンタみたいに、な」 「あ……。そういえば、私がここに入ってから、もうすぐ一年になるんですね……」 それを聞いて、千尋もこの一年を思い出すかのように、感慨深い表情を浮かべる。 「そういうわけだ。ロクに前も見ないで思いっきり走り回る無鉄砲なコネコが飛び込んできたのも、ついこの間のことだと思っていたんだけどな。気がついたらあっという間、だぜ」 「……もう! 私そんなに、見ていて危なっかしかったですか?」 「クッ……そいつは、アンタが一番よく分かってるんじゃねえか?」 「そ、それは、そうかも知れませんけど……。でも私、神乃木さんに追いつけるように、一生懸命頑張ってきたつもりですよ。もちろん、いろんな意味でまだまだですけど……」 神乃木は軽く片頬を上げて、そんな千尋の目を満足そうにじっと見つめた。 「ひとまわり大きくなっても、コネコの時のがむしゃらな気持ちを忘れない……アンタらしいな。その心をなくさずに持ってりゃ、この景色を見るたび、大きくなっていけるだろうさ」 再び神乃木は窓の外を見つめ、目で千尋をいざなった。 千尋は小首をかしげつつも、立ち上がって窓の外に目をやる。 「あ……!」 思わず、千尋が感嘆の声を漏らす。 柔らかい春の日差しに彩られた窓の外には、事務所の裏側にある桜並木が、見事な薄桃色の小径となって広がっていた。 「もう、桜が咲いているんですね。綺麗……。ここからこんな景色が見えるなんて、去年は気がつきませんでした」 「そりゃ、去年のアンタはいっぱいいっぱいのコネコだったんだからな。立ち止まって景色を眺めるゆとりなんてあったわけが無えさ。まあ、今だってそう余裕たっぷりってわけじゃねえだろうが、たまにはこういうのも悪くねえだろう?」 自分も隣に立って桜を眺めながら、神乃木はそっと千尋の肩に触れる。 千尋はうっすらと頬を染めて神乃木に寄り添い、静かにうなずいた。 「はい……。あの……神乃木さん」 「何だ?」 「私がもし来年の今ごろ、綺麗な花が咲いていることも気づかないぐらいに、気持ちのゆとりをなくしていたら……。その時は、またこうして……桜を一緒に見ようって、誘ってくれますか?」 神乃木は軽く微笑んで、千尋の肩に置いている手に力を込めた。 「ああ、構わねえさ。ただし……ギブ・アンド・テイクだ。千尋にも、一つ約束してもらうぜ」 「え……?」 「なに、難しいことじゃねえ。アンタの今言ったことを、そっくり裏返すだけだ。もしオレが、美味いコーヒーを楽しむ余裕もないようなカッコつかねえオトコになった時は……カップの中に、桜の花びらを一枚落としてやってくれ。ついでにキスの一つもサービスしてくれりゃ、カンペキだな」 ニヤリと笑ってぬけぬけと言う神乃木を、千尋は上目遣いでにらんだ。 「……なんか微妙に、私の条件のほうが多くありませんか?」 「ご不満なら、キス以上のサービスを上乗せしても、オレはいっこうに構わねえぜ」 「……もう! それじゃ、どっちへのサービスかわかりませんよ」 「もちろん、決まってるさ……両方に、だ」 あまりにも堂々とした恥ずかしい台詞に、思わず千尋は真っ赤になって黙ってしまう。 神乃木はそんな千尋を優しく抱き寄せ、耳元で囁いた。 「千尋……来年の桜も、こうして一緒に見るぜ。……次は、やるべきことにケリをつけて心置きなく、な」 千尋はうなずき、じっと神乃木の目を見つめた。そしてそのまま目を閉じて、ゆっくりと顔を近づけてくる神乃木を、身動きひとつせずに待っている。 やがて、窓に映る二人の影が、静かに重なる。 それは、今まで何度となく交わされてきた誓いのキスが、再び繰り返された瞬間だった。 きびきびとした仕事の空間に、しばしの間、二人の時間だけが流れつづける。 新しい年度まで数日を残すのみとなった、春の一日。暖かな日差しが、優しく窓から降りそそいでいた。 |