(ううん、これは……ちょっと予想外だったかも……) 目の前に広げたものをしげしげと見つめて、私は軽くため息をついた。 事の起こりは、久しぶりに早く仕事が終わった帰り道。 いつもはお店が開いているような時間には帰れないから、なかなかできない買い物をまとめて済ませてしまうことにした。 買い置きの食材、調味料、生活雑貨、参考書……いろいろと買い揃えるうちに、私の荷物はたちまち持ち切れないほどになってしまった。 最後に替えの下着を買った時にはもうへとへとで、じっくり選ぶ気力なんか残っていなかった。なので、それほど詳しく中身を確かめることもなくワゴンに袋詰めで積んであった3枚セットのセール品を買って、今日の買い物を終わらせることにした。 そして家に帰ってから、ゆっくり袋を開けて中身を確認してみたら……件の下着の中に、1枚。 私が想像していたよりずっと派手というか、きわどいというか、セクシーすぎるというか……とにかく、私が身につけたことのないようなものが混じっていた。 問題の下着も、ビニール袋の外からは一見無難なデザインの黒レースに見えた。 ところがいざ実際に広げてみると、普段穿くのはどうかと思うほどに大胆なものだった。 前と後ろを覆う布はかなり股上浅めまで切れ込んでいて、想像していたよりもずっと小さい。 腰回りを支える部分は幅2〜3センチぐらいのレースをそのままくるりと巻いたような形で、いわゆるTバックと紐パンツの中間みたいなシルエットだ。 素材は微妙にシースルーっぽくなっていて、畳んでいる時は普通の黒い布のように見えるけど、着る時の大きさぐらいまで広げてみると全体的にうっすら透けている。特に腰回りのレースは細かい網目状になっていて、肌が透けている面積のほうが大きくなりそうなぐらいだった。 (倉院の里では、こんなの見たことなかったけど……もしかして、こっちの女の人にはこれぐらい普通だったりするのかしら? さすがに、それはないと思うんだけど……でも、一度も穿かずに捨てるのも、もったいなくてバチが当たりそうだし……) 私の頭の中は、着るのが恥ずかしいという気持ちと、無駄に物を捨てるのは良くないという道徳観がぐるぐると回っていた。 とても自分に似合いそうにないのは分かっていても、小さな頃から身についた感覚というのはなかなか頑固で、「着ないから捨てる」という選択にはどうしてもためらいを感じてしまう。 (まあ……ひとさまに見せるものじゃないし、大丈夫……よね?) 幸いお風呂のある部屋だから銭湯に行ったりする必要はないし、下着を見せるような関係の相手がいるわけでもない。 結局私は、感覚的な恥ずかしさより、倫理的に恥ずかしくない行動を優先することにした。 (穿いてみれば、案外大丈夫かも知れないし……気にしちゃダメよ、千尋!) 自分で自分に活を入れ、私はおもむろに黒くて透けるひらひらの下着を手にとった。そして一日の疲れを洗い流すため、お風呂に向かう。 その後、お風呂上りにそれを実際に身につけて鏡を見たら、やっぱり相当に恥ずかしかった。だけど、気にしないと決めた以上、さっさと寝間着に着替えて忘れてしまうことにした。そしてそのまま早めに寝床に入り、明日の仕事に備える。 そして、その日はそれ以上何事もないまま、私は眠りについた。 その翌日。 星影事務所はいつも通り忙しく、私も例によって複数の案件を抱える神乃木さんのお手伝いに奔走していた。 「あの、センパイ。最初の資料まとめ終わりました。次は何からお手伝いしますか」 「ああ、ご苦労さんだったな。じゃあ次は、こっちの法廷記録に書かれている過去の事件についてまとめてくれるかい。ジイさんの資料室に、事件番号ごとにファイルされた記録が残っているはずだ」 「わかりました。ついでに、コーヒーのおかわり淹れてきましょうか?」 「クッ、気配り上手のコネコちゃん……キライじゃないぜ。じゃあ、コイツもよろしく頼む」 「はい! じゃあ、行ってきますね」 法廷記録の封筒とマグカップを受け取り、私は神乃木さんの書斎をあとにした。そして給湯室に寄っていったん流しにカップを置いてから、目的の資料室に向かう。 廊下の突き当りにある扉を開けると、広い部屋にファイルがぎっしりと詰められた本棚が並んでいる。 この前初めてここの資料室に入ったけど、ほんと、ちょっとした図書館並みだ。長年続いている事務所だけあって過去に扱った事件の量も相当なものだから、当然といえば当然かもしれない。 (その中には、『あの事件』も……) ふと、私が星影先生の所に来た目的が頭をよぎる。 今は目の前のやるべき事が多すぎて余裕がないけど、もう少し仕事に慣れてきたら、手があいた時に少しずつでも調べていこうと思う。おおっぴらに動くわけにはいかないから、かなり厳しい道のりになるのは間違いない……でも、あきらめずに真相を求めると決めたからには、前に進み続けるだけだ。 (いけない、今はお仕事に集中しないと……5年前の《XL3号事件》、か) うっかり思いに沈みそうになるのを振り払って、私は手元の法廷記録に注意を戻した。どうやら、今回の被害者が過去に巻き込まれた事件らしい。 (5年前の棚は……この辺ね) 年代ごとに固まっているファイルが、アルファベットと五十音順に並んでいる。ざっと見たところ、目的のファイルは部屋の入り口近くにある本棚の一番上あたりにあるみたいだった。 (V、W、X……あった!) 私は背伸びをして、上の段に並ぶファイルの背に手をかけた。 (よし、届いた……あれ?) ファイルを軽く引っ張ってみたけど、動かない。本棚の幅ギリギリまでファイルが詰め込まれてるせいで、両脇から押されて固くなっているみたいだ。 (うーん、この体勢じゃ安定が悪すぎて、たぶんムリね。じゃあ、キャタツに乗って……) 近くにあった脚立に登り、あらためて問題のファイルを引っ張る。相変わらず簡単には動きそうもないけど、もう少し力を入れれば何とかなりそうだ。 (よし、あとちょっと……!) 辛抱強く押し引きを繰り返して、ようやくゆるんだファイルを引き出そうと力を入れた……その時だった。 「…………! きゃあ!」 急にファイルが抜けた瞬間、身体がふわっと浮くような感覚に襲われた。 というか、実際に浮いた。 引っ張るのに力を入れ過ぎて足を踏み外したんだ……と意識する間もなく、私の身体は勢い良く吹き飛んでいた。 そして派手な音とともに、したたかに床に打ち付けられる。ついでに取り出そうとしていた周りのファイルが数冊、これまたドサドサと音を立てて床に散らばり落ちた。 「うう……」 腰とお尻を思いっ切りぶつけたらしく、すごく痛い。ぶつけた衝撃は首から頭にも伝わったみたいで、視界にはチカチカと星が飛んでいる。 私はしばらくの間、身動きできないままじっと固まって、痛みが引くのを待つことしかできなかった。 と、ほどなく、扉の外で近づいてくる足音に気づいた。 誰だろう……とゆっくり考えるまでもなく、扉が開き、見慣れた顔が覗く。神乃木さんだ。 「コネコちゃん、ナニかあったのか……!」 散らかったファイルの間で盛大に目を回している私に気づき、険しい顔で神乃木さんが駆け寄ってくる。 いつも余裕の表情を崩さない神乃木さんなのに、珍しく少し慌てた様子だ。 「大丈夫……とはいかねえようだな。どうした?」 「あ、すみません……上の段からファイルを取ろうとしたら、キャタツから落ちちゃって……その時、周りのファイルも一緒に落としちゃったみたいです」 痛みの彼方に飛んでいた意識をどうにか引き戻しながら、自分の中で状況を整理する意味も込めて、事の次第を神乃木さんに説明する。我ながら、間が抜けていて恥ずかしいにもほどがある。 「ケガはないか?」 「はい、たぶん、大丈夫だと思います……。お尻を打ったのが、ちょっと痛いですけど……」 神乃木さんは、足先から頭のほうまでゆっくりと視線を巡らせて、私の様子を確認する。 「よし、とりあえず、目立ったキズはなさそうだな……立てそうか?」 「あ、はい、もうちょっと待てば大丈夫です……たぶん」 落ちた時のショックはだいぶ落ち着いてきたけど、お尻から腰にかけての痛みが引くまでは、もう少しかかりそうだった。 「そうか、あまりムリはしないことだ。落ち着くまで、少し休んでな」 「はい。すみません、忙しいのにお騒がせしちゃって……たぶん一人で大丈夫ですから、センパイはお仕事に戻ってください」 「いや、そう焦るこたあねえ。ケガ人の大丈夫を真に受けて、そそくさと帰るオトコ……カッコつかねえぜ」 「うう……ホント、すみません……」 相変わらずほんのちょっぴりキザな言い回しに、ほんのちょっとだけ胸がドキドキする。 ……なんてことを一瞬考えたのもつかの間、神乃木さんは緊張していた顔をいつもの余裕ある表情に戻し、ニヤリと笑って言葉を続けた。 「それに……そんな格好のコネコちゃんを一人で置いていくほど、放任主義の飼い主でもねえからな」 「え……?」 「大人のネコ顔負けの、ダイタンな毛並み……コネコちゃんにしちゃ、ずいぶん色っぽいじゃねえか。うっかりネコの色香に惑わされるような、間抜けで悪い虫がつかねえとも限らねえ」 そう言って神乃木さんは、チラリと私の足元まで視線を落とし、返す眼差しで私の顔を見つめた。 (ダイタンな毛並み……色っぽい……悪い虫?) なにやら不穏な単語に、意味深な視線。 自分の足元を見ると……転んで尻もちをついた体勢のまま、膝を立てて八の字に足が広がった、三角座りのような姿勢になっている。 そして、そのだらしない格好のまま、私と神乃木さんは面と向かいあっている。 つまり……神乃木さんはイヤでも、私のスカートの中が見えるような位置にいて……。 「…………! きゃあ、ゴメンなさい、ゴメンなさい! は、はしたないものをお見せしちゃって、なんと言っていいか、その……!」 やっと状況を理解して、私は顔から火が出そうだった……! 慌てて足を閉じて謝る私を、神乃木さんはニヤニヤと見つめている。 「クッ……! オレとしちゃ、もうちょっと眺めていたいところだったんだが……そう、それでいい。ジイさんやら有象無象のオトコどもに見せるのも、ちょいとばかし面白くねえハナシだからな」 「うう……す、すみません……」 神乃木さんが悪びれずに堂々としているからか、なんだか、見せてしまったこっちが悪いことをしたような気分になってくる。微妙に納得がいかないけど、これが根本的な力関係というものなのかも知れない。 「いや、コネコちゃんが謝ることじゃねえさ。意外とセクシーな一面が見られて、飼い主冥利につきるってもんだ」 「いえ、その、そんなに大したものじゃないっていうか……」 神乃木さんの皮肉っぽい笑顔に余計恥ずかしくなりつつ、私は心の片隅で微妙な違和感の正体を探っていた。 (さっきから、意外とセクシーとか色っぽいとか……私、地味な下着しか持っていなかったはずなんだけど……ああっ!) 突然、さらに最悪の事態を裏付ける記憶が頭に浮かんだ。 地味でシンプルな下着しか持っていなかった自分にとって、唯一の例外。昨日買った中にうっかり混じっていた、セクシーすぎる黒いレースのアレは……確か昨日お風呂上りに試着して、そのまま今日穿いていたはずだ。 つまり、神乃木さんに見られたのは、よりによって……! 「あ、あの、その、これは……違うんです、ちょっとした誤解と行き違いの産物っていうか、事故みたいなものっていうか……!」 思わず、聞かれてもいない言い訳が口をついて出る。 そんな私を、神乃木さんは面白い生き物でも眺めているかのように、相変わらずニヤニヤと見つめるだけだった。 「ナニを慌ててるんだか知らねえが、オレは飼い猫のヒミツをあたり構わず触れ回る趣味はないぜ。そう心配はいらねえさ」 「い、いえ、その、それは信用してますけど、そもそもそのヒミツが……うう!」 間抜けで恥ずかしい失敗に、別方向の恥ずかしすぎる失敗を上塗りしたショックで、ますます顔が熱くなる。 ぶつけたお尻の痛みはだんだん引いてきていたけど、精神的ダメージから立ち直るまでには、まだまだ時間がかかりそうだった……。 |