「あ、おはようございます!」 書斎のドアを開けた瞬間、凛とした千尋の声がオレを出迎える。 千尋の机の上には、すでに多くの資料が広がっていた……どうやら、随分と早くから出てきていたらしい。 「ああ……朝早くから、張り切ってるな」 「はい! …………」 元気良く返事をしたかと思うと、不意に千尋は黙り込んでしまった。オレの目を見つめたまま、困ったような顔をして言葉を詰まらせている。 「……どうした?」 「あっ、すみません! その……。ちょっと、お話があるんですけど……いいですか?」 千尋は、まるで重大な秘密を打ち明けでもするかのように、いやに深刻な表情で話を切り出した。 こんな時は大抵、オレにとっては何でもないような些細なことを、千尋が一人で大袈裟に悩んでいると相場が決まっている。 「……ダメと言われても、話さないことには気が済まねえって顔だな。話してみな……聞いてやるぜ」 オレは、長話につき合うハメになってもいいように、デスクに腰掛けながら返事をした。 「はい…………」 オレがそう促しても、千尋はどう話していいのか迷っているような顔のまま、うつむいて黙っている。オレは、千尋が話す気になるまで、そのままじっと待った。 しばらくして、ようやく千尋が口を開く。 「あの……。名前のこと、なんですけど……」 「名前? 誰のだ?」 「それは、その……」 千尋はそれだけ答えたきり、オレの顔を見てまた黙り込む。 「この部屋には千尋とオレしかいねえ。まあ、自分のことじゃないなら……オレのこと、だな?」 「は、はい! えっと、その……呼び方、なんですけど……」 ひと呼吸おいて、千尋は一気にまくしたてるように口火を切った。 「あの……ゴメンなさいゴメンなさい! 私、あの時、これからは名前で呼ぶって約束しましたけど……でも、やっぱり、ダメなんです! なんていうか、その、先輩を呼び捨てにするような不作法は、やっぱりできませんから……」 千尋はいよいよ切羽詰まった様子で、まるで大事な壷を割ったことを親に謝ろうとしている子供のような顔をする。言いたいことは察しがついたが、オレはあえてそのまま聞いていることにした。 「だから、ええと……お仕事の間だけは、やっぱり、前みたいに呼ばせてほしいんです。それに、言葉遣いのほうも、今までどおりに……って、もう、思いっきり敬語で話してるからイミないかも知れませんけど、とにかく……」 オレはデスクから立ち上がり、眉間にしわを寄せて勝手に緊張している千尋の額を軽くつついて言葉をさえぎった。 「…………!」 「何かと思えば、まったく……。そんなことで、可愛いカオを台無しにしてたのか?」 「……えっ?」 オレはさらに、びっくりしたコネコそのままの顔で見つめる千尋を引き寄せて、そっと肩を抱きしめてやった。 「きゃっ!」 「オレは……プース・カフェをかき混ぜて飲むような、安いオンナを口説いた覚えはねえさ」 「……どういう意味、ですか……?」 千尋は、いきなり抱き寄せられて目を白黒させながらも、懸命に聞き返してくる。 「……大丈夫だ。シゴトはシゴト、プライベートはプライベートできっちりと分ける……千尋がそういうオンナだっていうことぐらい、百も承知で惚れたに決まっているだろう?」 オレの返事を聞いて、千尋がぱっと顔を輝かせた。 「じゃあ……!?」 「ああ。仕事中は、今まで通りで構わねえ。そのかわり……」 オレはさらに顔を近付けて、千尋の耳元で囁く。 「いったん二人きりの時間になったら、その間はずっと名前で呼んでもらうぜ。……いいな?」 触れている千尋の頬が、みるみる熱くなっていく。それでも千尋はけんめいに首を振って、大きくうなずいた。 「……よし、いい子だ」 肩をポンと叩いて、オレは千尋から身体を離した。正直なごり惜しかったが、そろそろ自主的プライベートタイムは切り上げの頃合いだ。 「じゃあ、今からはシゴトの時間だ。オレはオレで、見当をつけている資料を当たる。そっちが終わったら、千尋も手伝ってくれ」 「……はい!」 千尋はコネコ時代と同じ元気いっぱいの返事で、弾むように立ち上がった。 「じゃあ私、朝のコーヒー入れてきますね……神乃木さん!」 「ああ、とびっきりの一杯を頼むぜ」 オレも千尋に負けないように、集中して仕事モードに頭を切り替える。 やるべきことはしっかり片付けて、二人の時間になったら心置きなく楽しむ……オレたちのルールはそれでいい。 いつもの事務所には、いつもと同じ……それでいて、新しい時間が流れはじめていた。 |