また、今年もこの日がやってきた。 今日は12月24日。町中が楽しそうなざわめきで溢れる、クリスマスイブ。窓の外はすっかり月も高くなっていて、この夜もそろそろ一番の盛り上がり時を迎えようとしているみたいだ。 でもそんなことは、今の私には関係ない話だった。 目の前には、これから隅々まで目を通して手がかりを探すべき資料が、山のように積まれている。世間が楽しく盛り上がっているからといって、今日やるべきことが魔法のように片付いてくれるわけもなかった。 私は心の中で小さくため息をつきながら、こっそり隣にいる人の様子をうかがった。普段通りに仕事をしている見慣れた横顔は、私が毎日目にしている風景と何一つ変わらない。本当にいやになるぐらい、何もかもがいつも通りだった。 「あの、神乃木さん……」 「どうした?」 私の声に振り向く姿はやっぱり普段と同じように、ほんの少し皮肉っぽくて、余裕たっぷりだった。 「…………。コーヒーのおかわり、淹れてきましょうか?」 私は、勇気を出して言ってみようと思っていた一言を引っ込めて、代わりに何度となく繰り返してきた言葉を口にした。 「……そうだな。苦いのをもらおうか」 「はい」 神乃木さんの差し出したカップと自分のカップを手に、立ち上がる。 扉に向かう私の背中は、少ししょんぼりした気持ちを隠しきれていなかったかも知れない。 私にとっては一応初めての、愛する人と過ごすクリスマスだ。何も一夜の夢のようにきらびやかな時間を望んでいたわけじゃなかったけど、ささやかでも二人だけの時を過ごしたい……この日常そのものの風景にとけこんでいる自分を見れば、その小さな望みは、どうやら叶いそうもなかったからだ。 (……今は、やるべきことがあるんだもの。クリスマスだからって、浮かれている場合じゃないんだわ。気を取り直して……ファイトよ、千尋!) 私はそう自分に言い聞かせて、背筋を伸ばした。 そして、きびきびとドアに向かおうとした時だった。 「……千尋。他にもちょいと、頼みたいことがあるんだが……いいか?」 そんな私の背中を、神乃木さんが呼び止めた。 「何ですか?」 私が振り向くと、神乃木さんはちょっぴり皮肉っぽく片頬を上げて、私のことを見つめている。 「今日の仕事は……しっかり気合いを入れて、きっちり片付けてくれ」 「あ、はい……もちろん、そのつもりです」 今さら、なんでそんなことを聞くんだろう……きっと、私の顔にはくっきり字幕が出ているに違いない。 そんな私を見て神乃木さんは、ニヤリとさらに皮肉っぽく微笑んだ。 「それと、もう一つ。タイムリミットは、22時きっかりだ」 「……え?」 私の顔に書き足された疑問符を見て、神乃木さんはさらに嬉しそうに意地悪い顔をする。この悪戯小僧のような表情はきっと、何か私をびっくりさせようとしているに違いない。 「『街中が浮かれている時にはいつも通りに過ごして、後で自分だけの特別な時間を過ごす』……アンタ、こんなルールに聞き覚えはねえか?」 センパイのルールはたくさんあってとても覚えきれないけど、その言い回しはどこかで聞いた覚えがあった。 (確か、今とよく似た状況で聞いたような気がするんだけど……あっ!) そう、確か……今と同じように、いつも通りの特別な日に少し淋しい思いをしていた時のことだ。 「クリスマスのルール……ですか?」 「……その通りだ。ちゃんと覚えていたみたいだな」 神乃木さんは立ち上がって窓の外を眺めながら、言葉を続ける。 「ただし、一ヶ所だけ訂正がある。『自分だけ』じゃなく……『自分たちだけ』の特別な時間、だぜ」 それだけ言って、神乃木さんはじっと私の目を見つめた。 「……神乃木さん。もしかして……!?」 鈍感な私でも、さすがに神乃木さんが何を言おうとしているか気がついた。 我ながら単純すぎてちょっと恥ずかしいけど、嬉しさに頬が赤くなってきたのが、自分でもよくわかる。 「……今ごろいつもの店じゃ、マスターが腕によりをかけて準備をしているはずだ。街が静かになってから、オレたちだけの特別な時間をゆっくり一緒に祝ってくれるために……な」 そう言って片目をつぶってみせる神乃木さんは、やっぱり去年と同じように、口惜しいぐらい格好良かった。 でも、一つだけ去年と違うことがある。 今年の神乃木さんはもう、コネコの私にごほうびをくれる飼い主じゃない。特別な時間を私と一緒に過ごしたいと思ってくれている、一人の男の人だった。 「……コーヒー、淹れてきますね。22時きっかりに仕事が片付くような、目が覚めるぐらい苦いコーヒーを……」 そして私ももう、ごほうびをもらいっぱなしのコネコじゃない。 今の私は、愛する人と並んで特別な時間を過ごすために、やるべき事をしっかりと片付けようとしている一人前の女だ……胸を張って、そう言える。 街が静かになるまでに、気になることをちゃんと片付けるために。 私は、一番苦いブレンドがどこにあったか記憶を辿りながら、給湯室へ急いだ。 |