それは、いつもと変わらぬ昼下がりのはずだった。 (どれ、コンブ茶でも飲もうかいのう……ん?) 部屋の前で、星影は足を止めた。この時間にはあまり使われることの少ない給湯室には、先客がいるらしい。 (この声は……神乃木クンに、千尋クンかの?) 何となく星影はドアに耳を近付けて、中の様子をうかがってみた。声は小さかったが、確かに神乃木と千尋に間違いないようである。 「あの、センパイ……私、こういうの、初めてなんです。優しく、教えてくださいね……」 「クッ……誰でも最初は、初心者さ。遠慮はいらねえ。ダイタンに行きな」 「はい……。あの、こんな感じで……いいですか?」 わずかな間を置いて、神乃木の声が応える。 「ああ……悪くねえ。そうだ……そのまま、優しく下ろしていくんだ。そう、それでいい……。その可愛いツメは、立てないでくれよ………」 「はい……」 「そうだ。……スジがいいな。根元まで、キレイにむけたじゃねえか」 「ええ………なんとか、うまくいったみたいです」 「どうだ?」 「…………。固くて、すごく反ってて……。こんなに立派なの、本当に、入るんですか?」 「ああ……そっちの準備さえ良ければ、いつでもいいぜ」 「ちょっと、まだ……!」 「……そうでもないさ。もうこんなにアツくなって……すっかり、とろけているじゃねえか」 「あっ、そんなに……かき回さないでください!」 (…………!) 思わずじっと聞き入っていた星影は、千尋の切羽詰まった声で我に返った。 「こりゃあ、二人とも……ナニをやっとるんぢゃっ? ここは、神聖なる裁きの庭ぢゃぞい!!」 星影が、勢い良くドアを開ける。 「……先生! いるなら、いるっておっしゃってくださいよ……びっくりするじゃないですか!」 「クッ……。あわてんぼうのジイさん……カッコつかないぜ」 星影の目に飛び込んできたのは、確かにあまり仕事の場には似つかわしくない光景だった。 ガス台の前で、神乃木と千尋が何かを手に持って、仲良く小鍋をかき回している。鍋の中からは、むせかえるような甘い香りたちこめていた。 「……な、なんぢゃ?」 星影が、上から鍋を覗き込む。 「……クッ。山奥から出てきたコネコちゃんに、下町の味を教えてやっていたのさ」 「はい! 地元では、お祭りの屋台とかありませんでしたから……」 「コイツなら、材料とナベさえありゃカンタンにできるからな」 「あ、良かったら、先生も一緒に召し上がりますか?」 千尋はにこやかに微笑んで、鍋の中から棒に刺さったものを取り出した。 「できたての、ホヤホヤだ……コネコちゃんの手作り、ありがたくいただいちまいな」 星影は、毒気を抜かれたような顔のまま、千尋の手から串を受け取った。 棒の先には、まだ熱くて固まりきっていないチョコレートのかかった、立派なバナナがそそり立っていた。 「センパイ、チョコレートがまだアツアツなのに、勢い良くかき回そうとするから……チョコがはねるかと思って、アセッちゃいましたよ」 「パンチはアツいうちに打つもの、だぜ」 「って、意味がわかりませんよ……」 「チミたち……三時の休憩には、まだ早いぞい!」 じゃれ合う二人の上を、控えめな星影の小言が空しく通り過ぎてゆく。 午後2時30分。星影法律事務所の午後が、今日も平和に過ぎていこうとしていた。 |