「……千尋。やるべきことにきっちりカタをつけたら、オレはジイさんのもとから独り立ちするつもりだ」 神乃木の低い声が、静かな部屋にゆっくりと流れてゆく。 「前々から、いつまでも居候じゃ締まらねえとはずっと考えていたんだが……いつの間にか勝手にナンバーワンなんてもんにまつり上げられちまって、落ち着いて身の振り方を考える暇もねえぐらい、あとからあとから仕事が来るようになっちまった。そいつは、一緒に仕事をしていたアンタにゃ、言うまでもねえぐらいよく分かっているだろうけどな」 千尋は黙ったまま、神乃木の胸元でかすかにうなずいた。 「だがオレは今実際に、他の仕事もきっちり捌きながら、こうして一つの事件をじっくり追いかけている。そう考えてみりゃ……今までだって、やろうと思えば先々のことを考える時間ぐらい、いくらでも作れたってことになる」 枕元のコーヒーを一口あおり、神乃木は言葉を続ける。 「デキるオトコは、サバける仕事の数で決まる……頭じゃそう分かっていても、心のどこかで『忙しい』だの『暇がない』だの言い訳していたってわけだ。まったく、カッコつかねえハナシさ。だけどよ……そんなハンパはもうオシマイ、だぜ」 神乃木は千尋を抱き寄せ、強い力の宿る瞳を彼女に向けた。 「なんとしても、決着をつける。……千尋。アンタのおかげで、決心がついた」 「……私の?」 真っ直ぐに自分の目を見返してくる千尋の髪を撫でながら、神乃木はそっと千尋の額にくちづけ、低くともはっきり通る声で囁いた。 「ああ。今オレの腕の中にいるのは……どんなことがあってもあきらめずに一匹で立派にエモノを追いかけている、一人前のネコだ。……それなら、同じ一人前のネコ面して横にいるオレだって、どこまでもエモノを追いかけに行くのがスジってもんだ。さっき言った、ささやかな夢ってやつに近付くためにも、な」 神乃木の力強い声を受け止め、千尋が柔らかな微笑みを投げかける。 「……先生のところから独立する、って話?」 「ああ。でも、それだけじゃねえぜ」 神乃木は少し悪戯っぽく片頬を上げて、目の前に夢の情景を描き出しているかのように、再び遠くを見つめた。 「その時が来たら、オレはここを引き払って、新しい城を構えるつもりだ。一階が事務所で、二階が寝ぐら……二階建ての事務所兼自宅、ってやつだ。これなら、モーニングコーヒーを飲みそこなうこともねえ。……いつでも二人ぶんのコーヒーを淹れる時間が取れる、ってわけだ」 「…………………。……二人ぶん?」 神乃木が口にした言葉は、あまりにもさらりとしていた。それゆえ、千尋がそこに込められている意味に気づくには、しばしの時間が必要だった。 「……もちろん、一人で飲むコーヒーも悪かねえさ。だが、せっかくの城に独りきりってのも、どうにも味気ねえ話だ。どうせなら、イキのいいネコを一匹、そばに置いておきたいんでな……一階にも、二階にも、だ」 「…………!」 「ついてきて……くれるな?」 いつしか神乃木の顔からは悪戯っぽい笑みは消え、真摯な瞳が真っ直ぐに千尋をとらえていた。 喜び、戸惑い、驚き……千尋の表情が、さまざまな感情に目まぐるしく色どられる。 やがて千尋は目を閉じ、穏やかに微笑んで、ゆっくりと神乃木に唇を重ねた。 「私には……あの事件の他にもう一つ、ここでやるべきことがあるんです。それを成し遂げたら、その時は……」 続く言葉の代わりに、千尋は神乃木の背中に腕を回し、ぴったりと身体を寄せる。 神乃木はそんな千尋を包むように、力強く抱きしめた。 「……契約成立、だな。全てにケリをつけるために、これまで通り一緒に戦い……全てにケリがついたら、それからも一緒に進んでいく。いいな?」 「……ええ」 しばらくの間、二人の静かな息遣いだけが、夜のしじまにかすかな響きをもたらしていた。 「千尋……オレは明日からでも、決定的な手がかりを取りに行くつもりだ。一日でも早く、ケリをつけてやるぜ」 静寂を破ったのは、新たな決意に満ちた、神乃木のきっぱりとした声だった。 「ええ、私だって。……でも、あまり無茶はしないでね」 「虎穴に入らずんばなんとやら、だ……そいつは、ちょいと約束できねえな。もちろん、用心に用心を重ねて戦うさ。心配しないでくれ」 神乃木はふてぶてしく微笑んで、千尋の背中に回した手を撫で下ろしていった。 そのまま神乃木は、千尋の背中を撫で続ける。最初は力付けるように軽く撫でていた動きは、次第に熱っぽさを増した愛撫へと変わっていこうとしていた。 「……もう! 本当に……気をつけてね?」 「ああ。約束する」 短いやりとりの間にも、神乃木の腕はますます情熱的に動きはじめる。 部屋の空気は再び、静けさに満ちた神聖なものから、恋人たちの熱い空間に変わろうとしていた。 |