神乃木は、不安と好奇が入り混じった様子で目の前にあるものを見つめている千尋の手を取って、しっかりとそれを握らせる。 「エンリョはいらねえ。コネコちゃんの好きなようにして構わねえぜ。」 「はい……。自信はないけど、やってみます。」 千尋がそっと上下に手をすべらせてゆくのを、神乃木は満足そうに眺めている。 「……クッ。なかなか、思いきりがいいコネコちゃんだな……。キライじゃないぜ。」 しばらくの間神乃木は、千尋のするがままに任せていた。 千尋は時々不安そうに神乃木の顔を見上げながら、ひたすらに手を動かし続ける。 「そうだ……なかなか、スジがいいな。……好きこそものの上手なれ、だ。きっとアンタは、もともとこっちの素質があるんだろうさ。」 神乃木に誉められて、千尋が頬を赤らめる。 「そんな風に言われると……なんだか、恥ずかしいです。自分じゃ加減がわからないから、一生懸命やってるだけで……。」 「だから、だ。無心にひたすら頑張るシロウトは、手抜きのプロよりよっぽどいい仕事ができる。……オレの哲学だぜ。」 軽く千尋の頭を撫でてやりながら、神乃木はさらに続きをうながす。 「あの……同じようにしてばっかりじゃ、ダメですよね……?」 千尋は神乃木の様子をうかがいながら、今度は少し感じの違うタッチで手を動かしてゆく。 「いや、そんなことはねえさ……自分がしたいようにすればいい。だが、今のも悪くねえ……やっぱりアンタは、元々こういうことが好きなんだな。」 「そんなこと……でも、そうかも知れません。うまくできているかはわからないけど、こうしているだけで、なんだか楽しくてドキドキするんです……。」 ちょっと恥ずかしそうに、だが嬉しそうに手を動かす千尋を、神乃木がじっと見つめている。こころなしか、そのまなざしはいつもより少し優しげだ。 「そうか……コネコちゃんの意外な一面、だな。これからも、オレはいつでもアンタにつきあうぜ。」 「……ありがとうございます。じゃあ、今日はそろそろ……。」 千尋の視線を受け止めて、神乃木が軽くうなずく。 「ああ。……しっかり、フィニッシュまでキメてくれ。」 「はい……!」 千尋は一呼吸置いてから、無我夢中で思いきり上下に手を動かした。 「そうだ。そのまま、一気に……!」 「……はい!」 緊迫した息遣いが、二人の他には誰もいない部屋に広がってゆく。 一瞬の間を置いて、神乃木が千尋の頭を軽くポンと叩いた。 それは、二人きりのレッスンに、終わりを告げる合図だった。 「上出来だ、コネコちゃん。初めてにしちゃ、よくできたじゃねえか。」 「ありがとうございます。」 千尋は、手に持っていた立派な筆を置き、目の前のカンバスを見つめた。 その中心には、ちょっと実物よりも大きな神乃木のマグカップが、繊細なタッチで描かれている。 「じゃあ、ちょいと休憩だ。コイツに、中身を淹れてきてくれるかい。」 「あ、はい!」 モデルの役割を果たしたカップを手に取り、千尋は足取りも軽く給湯室に向かった。 夜の事務所は、二人だけの教室から、二人のための休憩室に役割を変えようとしていた。 |