「よく来てくれたわね……さあ、こっちに座ってちょうだい。遠慮はいらないわ」 放課後の、音楽練習室。 いつも通り斜に構えた不敵な笑みをたたえてドアを開けた一人の男子生徒を、千尋は優雅に微笑んで出迎えた。 「言われなくたって、エンリョなんかしねえさ。オレを呼び出したのは、センセイのほうだろ。そっちに用があっても、こっちに用はねえんだからな……律儀に来てやっただけ、ありがたいと思いな」 乱暴に足を投げ出して、彼は千尋の正面に腰掛けた。 「そうね……神乃木君が素直に来てくれたって知ったら、きっと、他の先生は驚くでしょうね。でも、私は信じていたわよ」 気の弱い教師たちなら思わず怯んでしまうであろう強面な態度を目の前にしても、千尋は余裕ある微笑みを崩さない。 そして、正面から目を見すえて、いきがった若者には何よりも鬱陶しく響く魔法の言葉……『信頼』を、まっすぐに投げかける。 「クッ……お人善しなセンセイ、キライじゃないぜ」 神乃木は、そんな彼女の牽制を軽くいなした。何十人という教師に数えきれないほど呼び出された歴戦の強者である。その程度の攻撃で、ペースを乱されたりはしなかった。 まずは、互角。 お互いに余裕の表情を崩さないまま、使命感あふれる教師といわくつきの問題児は、正面から向かい合った。 「で? その熱血教師さまが、札付き相手に何の用事だい?」 つま先から全身をねめつけるように見上げてじっと千尋を見つめ、神乃木が戦端を開く。 「それは……神乃木君も、よくわかっているんじゃないかしら?」 あくまで優雅に、美しく。千尋は艶然と神乃木の視線を受け止め、何もかも見通すような目で問い返した。 「あいにく、何のことだかさっぱりだな。……お咎めを受けそうなことをやったのを、いちいち覚えてるほどヒマじゃないんでね」 「あら、わかってるじゃない。私も、アナタがやった事の一つ一つにお説教できるほど、時間が余っているわけじゃないわ」 神乃木は軽く眉間にしわを寄せ、千尋の真意を探るように軽く眉間にしわを寄せた。 睨むような神乃木の目にもあでやかな笑みを崩さず、千尋は言葉を続ける。 「今日来てもらったのは……もっと、単純な話。今までのことじゃなくて、これからのことを話したかったのよ」 教師となり母校に戻ってきた千尋が最初に聞かされた話は、新人である彼女には過酷すぎる試練を予想させるものだった。 初めて担任することになった二年生のクラスに、『学校始まって以来の問題児』がいる。 どこかおどおどしながらその事実を告げる学年主任は、千尋に“彼”の所行を淡々と説明していった。 とにかく学校に来ない。 来ても、まともに授業を受けたためしがない。 起こした暴力事件は数えきれず、時折他校の生徒が集団で、彼を名指しで殴り込んでくる。 校内で白昼堂々の不純異性交遊。 雀荘荒らしをはじめとしたギャンブル行為の数々……などなど。 「成績自体は悪くありませんが、とにかく、手に余る生徒であることだけは確かです。去年、我々もできるだけのことはしたのですが……」 緊張した面持ちの千尋に向かって、学年主任は彼女から目を逸らし、言い訳のように付け加える。 「なに、そう構える必要はありませんよ。何人ものベテラン教師でさえ手に負えなかった生徒の更生を、新人である貴方に求めようとは思っていません。困ったことがあったら、誰かに相談してください」 要するに、“誰がやっても無理なら新人でも同じ”という理由で、千尋は厄介な役回りを押し付けられることになったらしい。 新人ならトラブルを解決できなくてもそれほどの失点にはならないぶん、誰もキャリアを傷つけずに済む……そんなベテランたちの思惑も、どこかに見え隠れしているようだった。 「……わかりました。精一杯、頑張ってみます」 それだけ言って、千尋は頭を下げた。 「ありがとうございます。デスクの上に、彼が去年に起こしたトラブルの記録が置いてありますから、参考にしてください。それでは、宜しくお願いいたします」 千尋が素直に引き受けたことで、学年主任は露骨にほっとした声を出した。そして、軽く一礼してそそくさと職員室を後にする。 これ以上その問題には触れたくないのが、ありありと伺える態度だった。 しかし、姿勢を正してそんな彼の背中を見送る千尋の目は、降ってわいた災難から何とかして逃げようとしている被害者のものではなかった。 (……上等じゃない。駄目でもともとなら……やるだけのことはやってみるわよ、千尋!) 彼女のまっすぐな心は、戦う前からあきらめることなど許さなかった。 どれだけ困難な試練でも正面から立ち向かう……そんな決意に満ちた目で、千尋は机に置かれている“彼”の資料を手に取った。 『2−A 神乃木荘龍』。分厚いファイルに書かれている名前を、千尋はしっかりと心に刻み付けた。 「これからのこと? クッ、まあいいさ……話してみな、聞いてやるぜ」 ためしに放課後に呼び出してみたところ、拍子抜けするほどあっさり神乃木は応じた。 人を食ったような態度は変わらないが、こうして一対一で向かい合うことができただけで、千尋には十分だった。 (ゼッタイ、素直にさせてみせるんだから……ファイトよ、千尋!) 千尋は軽く深呼吸して、本格的な戦いを前に、ふてぶてしく微笑んだ。 |