神乃木様が指差した絵をご覧になって、綾里様は不思議そうにお尋ねになられます。 「もう一つの顔、ですか?」 「さようでございますね……それでは、少々お待ちくださいませ」 百聞は一見にしかず。私は、壁から小さな額縁をを取り外して、カウンターに戻りました。 「お待たせいたしました。この絵に限らずこちらに飾ってある絵は全て、当店の名前“trompel' oeil”……『トロンプルイユ』そのものなのですよ」 「『トロンプルイユ』?」 「例えばこの、窓から海を眺める婦人でございます。ちょっと、こちら側からご覧いただけますかな?」 私は綾里様の斜め向かいに体をずらし、ほんの少し絵を傾けてみます。 「…………?」 おもちゃを見つけた仔猫のように目を丸くして、綾里様は絵をじっと覗きこんでいらっしゃいます。そして、しばらくの後…… 「あっ! 男の人……?」 「そう……“trompel' oeil”とは、フランス語で『だまし絵』のことなのですよ。見る角度によって全く違う姿を見せる、遊び心あふれる芸術……人が誰でも持つ様々な姿を感じさせてくれるように思えて、私を引きつけてやまないのです。そういえば神乃木様が初めてここにいらっしゃった時にも、そんな話をいたしましたね」 「ああ。ちょうど、このスペシャルブレンドを飲っていたときにな。ところでマスター、そろそろコイツが冷めかけてきたようだ……もう一杯、同じヤツをもらえるかい?」 そうおっしゃって、神乃木様は一気にカップをお空けになりました。綾里様も、グラスをランプにかざしてしばし見つめた後、ゆっくりと味わいながら飲みほされました。 「私も、何かもう一杯お願いします」 「かしこまりました。メニューをご覧になられますか?」 「そうですね、どうしようかしら……そうだ! 私も、初めてここに来て、神乃木さんと同じお話を聞かせていただいたんですから……神乃木さんが今飲んでいるコーヒーと、同じものをいただけますか?」 「……クッ。このスペシャルブレンドは、ちょっとコネコちゃんには苦すぎると思うぜ? もう少し、コネコちゃん向きのヤツをマスターに選んでもらった方がいいんじゃねえか?」 「もう……いくらなんでも、そこまで子供じゃありませんってば! コーヒーぐらい、ミルクや砂糖なしでも飲めますよ」 綾里様がそうおっしゃって胸を張ると、神乃木様は再び皮肉な笑いを浮かべられました……先程よりも、さらに嬉しそうにニヤリとしたお顔です。 「……同じ手は二度と食わない。そいつが、一人前のオトコのルールだぜ。やっぱりアンタには、コイツは早すぎるみたいだな……すまねえが、マスター。オレのスペシャルブレンドのほうも、正体を教えてやってもらえるかい?」 意味ありげな言葉に綾里様は、試験を乗り切ったらまた不意打ちのテストを告げられた学生のように、一転して不安そうなご様子になられます。神乃木様も、ここまで計算済みだとしたら、なかなかお人が悪いですね……。 |