神乃木さんが開けてくれたドアの向こうは、初めて来たところなのに、不思議と馴れ親しんだ空気が流れているような気がした。 古い外国映画に出てきそうな、シックな雰囲気のインテリア。扉の両脇には、名前はわからないけど眺めていると落ち着いた気分になる観葉植物が二つ、対になって置かれている。 シンプルな機能美と、渋い趣味で統一された空間……そう、いつも私が助手として一日の半分ほどを過ごしている、神乃木さんの書斎で馴染んだ感覚そのものだ。 それも、当たり前のことだった……だってここは、神乃木さんのお家なんだから。 あのバーを出てから、どこに行きたいのか決めることもできないぐらいぼうっとしたままの私を、神乃木さんは何も言わず、ここに連れてきてくれた。 自分でもよくわからないけど、たぶん、今の私にとって一番いい場所は、ここなんだ……部屋に入った瞬間、そんなふうに感じた。やっぱり神乃木さんには、私のことは何でもお見通しなんだと思う。 「あの……お邪魔します……」 神乃木さんの勧めるままに、ソファに腰掛けた。座り心地の良さから、飾り気はないけど、いいものなんだということがよくわかる。 神乃木さんは最初、私の向かい側に腰掛けて何か言おうとしているふうだったけれど、何かを思い出したかのように、すぐに立ち上がった。 「ああ……まあ、楽にしててくれ」 それだけ言うと、神乃木さんはさっと奥の方に行ってしまった。しばらくして流れてきた馴れ親しんだ香りで、コーヒーを入れてくれているんだな……ってわかった。 事務所では、私から神乃木さんにコーヒーを入れるほうがずっと多かったから、なんだかいつもと違って落ち着かない。 私がなんとなく部屋の中を眺めながらじっと待っていると、しばらくして、神乃木さんが二つのカップを乗せたお盆を持って戻ってきた。 「ほら、まずはコイツで一息入れな」 そう言って、神乃木さんは私の前にカップを置いた。ちゃんと私のぶんのカップには、ミルクとお砂糖が添えられている。……それだけでも、口には出さないけど、本当に私のことを気遣ってくれているのがよくわかった。 本当は神乃木さんと同じブラックが飲みたいような気分だったけど、せっかくの好意を無駄にしたくなかったから、甘いカフェオレをいただくことにした。 一口飲んで、私は、やっぱり神乃木さんのほうが正しかったことを思い知らされた。疲れきった心と体に、カフェオレの甘さとまろやかさが優しく広がっていく。 「ありがとうございます。……やっぱり、おいしいですね」 私が心からそう言うと、神乃木さんは、私の目を見てかすかに微笑んだ。 「……良かった」 「…………?」 「少なくとも、コーヒーの味がわかるぐらいの気力は戻ってきたみたいだな」 そう言えばあの時から今まで、何を飲んでも、味なんて覚えていなかった。 そんなことまで心配させていたなんて……そう思うと、もう何度お礼を言っても足りないぐらいに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 「……隣、いいか?」 「あ、はい……」 神乃木さんは私の隣に座って、一口ブラックコーヒーを飲んでから、私のほうに向き直った。 「約束だからな。明日まで、必ずそばにいる。……そばにいることしかできないけどな」 「いえ、そんな……すみません」 それこそが、私の一番望んでいることだった。そのうえこれ以上何かをしてもらおうだなんて、考えることもできない。いや、これだけでも、もう充分すぎるぐらいに迷惑をかけている。 そう思って私が頭を下げると、神乃木さんは、首を横に振ってこう言った。 「おっと、『すみません』も『ありがとう』もナシだ。これは、オレが好きでやっていることだぜ。礼を言われる筋合いはねえさ」 ……本当に、この人にはかなわない。うれしくて、安心して、感謝して……本当は“無し”と言われてもありがとうって言いたかったけれど、一言でも口を開いたら最後、涙が止まらなくなりそうだった。 だから私は黙ってうなずいて、神乃木さんの肩にそっと頭をもたせかけた。 触れている肩や腕は暖かくて頼もしくて、ただ寄り添っているだけで、優しくて大きな力が流れ込んでくるような気がした。 私はそのまま、親に甘える動物の子供みたいにぴったりとくっついて、ただじっとこの場所に居させてもらった。 |