私を夢の中から覚ましたのは、馴れ親しんだコーヒーの薫りだった。 まだぼんやりとしたまま、回りを見回す。そこは確かに、荘龍の寝室だった……どうやら荘龍は先に起きて、コーヒーを入れてくれているらしい。 私はベッドに寝転んだまま、大きく私の運命を変えた一日に思いを馳せた。 初めての法廷で受けた、はかりしれないダメージ。 ショックで何も考えることができなくなっていた私を、いつの間にか例のお店に荘龍が連れていってくれてたこと。 そこで交わした、いつ果たされるとも知れない誓い。 そばにいてもらうだけのはずが、お互いの気持ちを確かめることになった、不思議な運命のめぐり合わせ。 そしてまだ身体に残る、ゆうべの熱い夜の証。 あまりにも色々なことがありすぎて、全ては夢だったんじゃないかと思うぐらいだ。 でも、この身体に残る温もりが、現実だったという何よりの証拠だ。 私は余韻を思い返したまま、もうすぐいつものようにちょっと皮肉な微笑みを浮かべて戻ってくるであろう、愛する人を待ち続けた。 荘龍は予想通り、二つのマグカップを手に、いつもの皮肉な……でもいつもよりは優しい微笑みを浮かべて、部屋に入ってきた。 「あ、おはようございます……」 私は、ゆっくりとベッドの上に身を起こした。 「ああ。よく眠れたか?」 カップを受け取って、私はうなずいた。 そしてあらためて、昨日のことを思い出しながら荘龍の顔を見つめた。 「……どうした?」 「あ、いえ……。夢じゃなかったんだなあ、って思って……」 荘龍は私の隣に腰掛けて、額に軽くキスをした。そして、今度こそいつも通り、ちょっと皮肉にニヤリと微笑んだ。 「夢じゃねえさ。あんなにアツい夜が、夢だったんじゃ困る」 「……もう!」 相変わらず荘龍は、意地悪の天才だ。ゆうべのあられもない姿をイヤでも思い出させられて、私の顔は一気に火照った。 照れ隠しにコーヒーを一気に飲む私を見つめ、荘龍は嬉しそうに頭を撫でてきた。 これからも、こういうところはコネコ時代から変わらないのかも知れない……そんなことを思いつつ、私はゆっくりと流れる時間に身を任せた。 (……って、時間…………?) 不意に私は不安になって、枕元の時計を見つめた。 時計の針は無情にも、定時をとっくに過ぎた十時過ぎを差している。 「……あっ! 大変……もう、こんな時間! どうしよう、急いで着替えないと……あ、その前に、事務所に電話しなきゃ! 他に、えっと……」 私があたふたしていると、なぜか荘龍は落ち着き払ったまま、余裕たっぷりに私のおでこをつついたりしてくる。 「……千尋、何を慌ててるんだ?」 「何をって……そりゃ、遅刻に決まってるじゃないですか!」 それを聞いて荘龍は、ああ……と、合点のいった顔をした。そして、おもむろに口を開く。 「その心配はねえ。星影法律事務所は、事件のカタがついた次の日は、担当者は公休だ。知らなかったか?」 「……え?」 公休。それはつまり、お休みということだ。じゃあ、私が今まで慌てていたのは……まったくの無駄だった、というわけだ。 「そういうことだ。千尋は今日、大手を振って休んで構わねえんだぜ」 「そう、だったんですか……」 なんだか、一気に拍子抜けしてしまった。 でも、荘龍から聞いた何気ない一言は、私の心に小さな影を落とした。 「あ……、でも……」 その影の正体はわかっているのに、うまく言葉にできない。 荘龍は、何もかも見通すような目で、私の顔をのぞき込む。 「ああ……どんな形であれ、あの事件には、カタがついちまった。もう二度と、同じことで裁くことはできねえ」 「…………」 そう。どんなに後悔しても、時間は戻ってこない。あの事件の真実にたどり着くことは、もう絶対にできない……そう思うと、悔やんでも悔やみきれない後悔がまた押し寄せてくる。 「だが、カタはついても、ケリはついてない。だから、オレたちはこれから一緒にケリをつけに行く……そうだろう?」 「……荘龍!」 いつだってこの人は、私のことを全部わかってくれている。 私は、そばにいてくれると約束してくれた人の胸に飛び込んで、影を照らしだす力を目一杯満たしてもらった。 荘龍は、そんな私を優しく撫でながら、耳元で囁いてくる。 「そのためにも、今日はゆっくり休むことだ。このままのんびり過ごすのもいいし、どこかに出かけるのもいい。オレは、千尋のしたい事に付き合うぜ。……お望みなら、ゆうべの続きを好きなだけ、っていうリクエストでも……な」 「…………!!!」 また荘龍は、ゆうべの恥ずかしい記憶を思い出さざるを得ない絶妙のキーワードで、コネコ時代よろしく容赦なしに私をからかってくる。 お望み通り背中を丸めて引っ掻いてやろうとしたら、荘龍は軽くかわすようにベッドから立ち上がってしまった。 「どうするにしろ、まずはエネルギーが必要だ。今日は特別に、オレの特製ブランチをオゴらせてもらうぜ」 「あ、そんな、私、手伝います!」 「いいから、ゆっくりシャワーでも浴びてきな。たまには、男の手料理ってのも悪くないもんだぜ」 結局、いつものように押し切られてしまう。私はおとなしく、シャワーを浴びてくることにした。 シャワーを浴びている間に、私は思いっきり今日を楽しむ方法を考えることにした。 だって明日からは、自ら選んだ厳しい戦いが待ち受けているのだから。 でも、私はきっと大丈夫だ。一人ではくじけてしまう道も、一緒に歩いてくれる人がいる。 嬉しそうにキッチンに消えていく後ろ姿を見つめながら、私は顔を上げ、明日のための今日に向かって歩きはじめた。 |