神乃木さんは、部屋に入ってまっすぐクローゼットのところまで行き、神乃木さんがパジャマにしているらしい服を取り出して、無造作に渡してきた。 「サイズは合わねえだろうが、スーツのままってわけにもいかねえだろうからな。他に必要なものがあったら、そこの引き出しにあるやつを勝手に使ってくれ」 「あ、はい、ありがとうございます」 私自身が忘れていたようなことまで、先回りして気を遣われてしまった。普段のマイペースぶりからは想像しにくいけど、神乃木さんって、意外とマメなところがあるのかも知れない。 「……じゃあ、ゆっくり休んでくれ。オレは向こうにいる。ドアは開けておくから、何かあったらいつでも呼びな」 そう言って、神乃木さんはくるりと背中を向けた。あまりに当然のような行動だったので一瞬流してしまいそうになったけど、それはつまり、神乃木さんはここ以外の場所で寝るつもりだということだ。 私は、慌てて神乃木さんを呼び止めた。 「え!? あの、神乃木さん、『向こう』って……どこで寝るんですか?」 「さっきのソファだ。あれで、なかなか寝心地は悪くねえんだぜ」 これまた当然のように、神乃木さんは答えてくる。……冗談じゃない! もうこれ以上迷惑をかけるなんて、絶対にイヤだった。私は、断固として抗議した。 「ダメですよ! ここは、神乃木さんのお家なのに……それなら、私がそっちで寝ます! 家主を差し置いてベッドで寝るなんて、そんな……」 「おいおい……それを言うなら、オレに、女をソファで寝かせてのうのうとベッドで寝るような真似をさせるつもりか? レディファーストってのは、オレだけのルールじゃねえんだぜ」 神乃木さんはあきれたような顔で説得してきたけど、これは譲れない。 「だって今、寝心地は悪くないって言ったじゃないですか。それなら、私がそっちで寝たって問題はないはずです!」 「おい千尋、そういう問題じゃ……」 「どういう問題でも、私にはそんなことできません! どうしても私にベッドで寝ろって言うなら、せめて神乃木さんもここで一緒に寝てください!!」 ……………………。 神乃木さんが、なぜか固まっている。私は一瞬、何が起こったのかわからなかった。私は慌てて、今のやりとりを順番に思い出してみた。 …………あ! 私は、自分が考えようによってはとんでもない意味にとれる……いやむしろ、そういう意味にしかとれないようなことを口走ってしまったことにようやく気がついた。 何か言わないと……。頭ではわかっているのに、何も言葉が出てこなかった。神乃木さんも、きっと何か言おうとしてくれているんだろうけれど、何も言えないみたいだ。 私にできるのは、自分のうっかりした発言を、たっぷりと後悔することだけだった……。 「そうしたら……『そばにいる』だけじゃ済まなくなる」 神乃木さんは、眉間にしわを寄せて苦い顔を見せたかと思うと、もう一度背中を向けて、ぽつりとそう呟いた。 「…………。あ、あの、私……」 「頼むから、オレを、弱ったオンナに手を出すクズ野郎にはさせないでくれ……」 ……そうだ。神乃木さんは、そういう人だった。 私が、もしそういうことになっても構わないと思えるぐらいの好意を寄せているのを承知のうえで、今みたいに普通じゃない状況では、絶対にそういうことはしない。 きっと、私が呑気に甘えている間も、そのことで自分と戦っていたのかも知れない。 そこまで私を大切に守ってくれていた人に対して、私はなんてひどいことをしてしまったんだろう……私は、そんな自分の浅はかさを、百万回でも呪ってやりたい気分だった。 そしてそれと同時に、私にとって神乃木さんがどれほど大事な存在なのか、イヤというほど気づかされた。 どうにかしてこの気持ちを伝えたかったけれど、最初に謝るための言葉さえも見つからない。 そのまましばらく、重苦しい沈黙だけが流れていた。 「じゃあ、行くぜ」 とうとう神乃木さんは、この不毛な時間を打ちきる決心をしたようだった。 広い背中が、このまま永久に遠ざかっていくかのように感じられる。 (これで……これでいいの、千尋?) 私の中で、自分が問いかける。 その答えが決まるのに、ほとんど時間は必要なかった。もしかしたら、最初から出ていた答えなのかも知れない。 「待ってください! 私……それで、構いません。だから、行かないでください」 私は、緊張に震えながら、それでも全身の勇気をかき集めて、神乃木さんを呼び止めた。 神乃木さんは今まで私が見たこともないほど驚いた顔で、自分の耳に入ってきた信じられない言葉を反芻するかのように、ゆっくり、ゆっくりと振り返った。 |